福岡県第4学区の受験&学習情報局

主夫教室長の悪戦苦闘日記

帰省で人生を想う

GW休暇が終わってしまいました。

今年は私の中部地方の実家に帰ろうと思っていたのですが、一人で暮らす母からコロナ感染が怖いから来ないように言われてしまったので残念ながら諦めることにした。

 

もう母には何年あっていないだろうか… 父が亡くなった時からだから7年になるのだと思う。うちはなかなか本気の無宗教なので○回忌などもしないので帰るタイミングがないのだ。

 

そういうわけで今年は妻の実家に帰省することにした。妻の実家は長崎なのでコロナ前は年に何度かは帰省していた。義母が亡くなってからは回数が減ってはいたがそれでも年に1度は顔を見せに帰省していた。

 

3年ぶりの帰省になったわけだが、その間義父が入退院を繰り返すようになっており、80歳を超えていることもあり、会える時に会っておこうということになったのだ。

 

義父は私より3つ上の義姉と2人暮らしだ。義姉も右手親指を怪我しており不便な暮らしを強いられている。

義父は喘息持ちで酸素がかかせなくなっており喉を切開してチューブを入れて取り込んでいた。1日4回の吸入も必要で家での行動範囲は酸素チューブの届く範囲という様子だった。

 

大好きな焼酎や煙草も制限されており、かわいそうだと感じた。

それでも娘や孫の顔をみて嬉しそうだったし、私たちがお墓の掃除を手伝ったり、娘の手料理で20歳になった孫と酒席を囲めたことが嬉しそうだった。

 

私の父は、団塊世代の象徴のような人で超のつく仕事人間であった。

定年後は市役所の仕事をしたりしていたが、事あるごとに遺書を更新したり、非常に厳しい人だったのに丸くなっていたりと力をなくしていっているのが目に見えてわかった。泥酔して2階の寝室に行く際、階段を踏み外し蜘蛛膜下出血によって1週間の意識不明の後他界した。

不謹慎かもしれないが、この後長く生きても本意ではなかっただろうと思い、これまた酒豪であった父の「らしい」死に様に不謹慎とは思ったが安堵したという気持ちがあった。

 

しかし、この対照的な父達の生き様に、私の父は本意だっただろうかと想うようになった。

 

私は、妻より少しだけ長生きをして、子供たちに看取られながら逝くつもりでいる。

残りの半分はもっと自分らしい生き方というものを探しながら生きていきたい。

やりたいことがたくさん残っていて(見つかっていて)無念の中で死んでいければいいなと思いを馳せるGWでした。